大正初期のものと思われる石孫の『醤油の栞』によりますと、

    “安政二年元祖孫左エ門ハ意ヲ醤油ノ醸造ニ志シ
    當時僅カニ一小村落ニ過キサリシガ氣候温和ニシテ
    水利ノ便他ニ優レ水質亦純良ナルヲ以テ醸造用ニ
    最モ適スルヲ知リ將來有望ナルヲ認メ自ラ研究シ試シムルニ
    品質佳良ノ醤油ヲ得タリ醸造業ノ基礎ヲ確立セリト云ウ…”

    と、あります。

    安政二年(1855年)初代石川孫左エ門は元々酒処であるこの地が
    醤油醸造にも適することに着眼し、杜氏南部三郎を招いて研究を重ね
    ました。
    その後、当時の岩崎藩藩主・佐竹公へ醤油を献上、賛を博したこと
    から広く一般にも用いられるようになり、事業の基盤を確立します。

    当時はまだ醤油というものがこの地には広まっておらず、‘たまり’
    が主流だったと言われています。しかし、幕末・明治と時代が移り、
    中央・他県からの人や文化が入るにつれて、醤油を使う習慣も
    定着したようです。
    初代・孫左エ門が醤油醸造を始めたことは、時代の先駆けだった
    と言えるでしょう。

    (このページの背景に使っている蔵の並んでいる絵は
     『醤油の栞』の表紙絵を加工して使っています。)

 
 ↑『醤油の栞』に収められている写真。 ‘店員慰安会’とある。
   当時珍しかったと思われる自転車が数台。

 
当時の醸造蔵の全景。もちろん航空写真であるはずはなく絵。
   現在も建物はほぼ、この姿を保っている。 



  図の中央部分、五つ並んだ蔵は建設当時から現代まで仕込みの場
  として使い続けている。
  
  そのうち、一番右が醤油醸造蔵であった一号蔵。
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災の際に、稀に見る
  豪雪による重みと、激しい揺れに耐えきれず全壊。
  
  その隣、二号蔵を改築し、新たな醤油蔵として再生。

 

 


 


    明治に入り、二代目孫左エ門は、当時醤油醸造の先進地であった
    千葉県野田・銚子地方の視察を重ねるなど、さらなる研鑚を積んで、
    初代が築いた基盤を元に、事業を急成長させました。

    また、販路を広げるに当たり一目で人々の記憶に残り、目に留まり
    易い樽印の必要があると、‘フンドウジン’の商標を作ります。
    この‘フンドウジン’にはこのような話が言い伝えられています。

    “或夜豫テ信仰スル観世音菩薩出現シ賜ヒ
     營業本意ハ仁義禮智信ノ五箇條ヲ守リナバ必ス繁昌シル
     ト諭サレタルヲ夢ミ即チ之ヲ取リテ商標と為セリト云ヒ傳フ…”

    二代目の夢枕に立った観音様に‘仁義礼智信’の五箇条を営業の
    信条とせよ、と諭され、重さを量る分銅に‘仁’の文字を入れる
    樽印を考案しました。
    フンドウジンは現在も石孫醤油の商標として使われています。


    石孫味噌の商標で、蔵の外壁にも付けられています井桁のマークに
    ついては詳しい記述も言い伝えも残念ながら残っておりません。
    酒造業を営んでいた本家から伝わったものではないか、と推測され、
    創業以前から屋号のように使われているようです。
    蔵の壁や石孫の揃いの半纏の背にも大きくこの井桁が染め込まれて
    いることからみても、昔から、より親しまれてきたマークであることは
    間違いないでしょう。
    また、『孫左エ門』の名も代々継承していくことになります。


      

大正14年11月23日の新聞広告(クリックすると別窓で拡大)
  杜氏‘石川卯一郎’とは四代目孫左エ門のこと。
  代々孫左エ門は長命で、二代目、三代目、四代目が    
  同時期に仕事をしていたこともあった。    


     

     味噌の醸造は二代目から始まりました。

    この地方は農村部落であり、米や大豆の収穫が豊富だったため、
    各家々で自家用味噌を煮ていました。
    二代孫左エ門は味噌が米飯に次いで‘滋養調味品’であるところに
    目を着け、味噌の製造法にも研究を重ねます。
    原料を選び抜き、米麹の改良を図り、最適な熟成期間の設定など、
    ‘完全なる製造法’を見つけるために苦心しましたが、その努力の
    結果‘井桁印岩崎味噌’の製造に成功いたしました。

    現在も、早春になると各ご家庭からの‘自家用味噌’のご注文を
    頂き、特に5月、6月、蔵は一番忙しい時期になります。
     

    ※‘自家用味噌’(仕込生味噌)について
      毎年、春に仕込み、熟成させて、秋に食べ頃を迎えます。
      昔は各家庭で仕込んでいたものですが、この仕込みの工程を
      当店で委託を承り、各ご家庭で熟成させて頂きます。
      予約注文をお受けした上、5月〜6月にお届け致します。
            

    …詳細はお問い合せ下さい。

 
創業百周年記念の小冊子に収められた奥付(昭和30年) 

 


 


    大正から昭和へ時代が移ると戦争は否応なしにこの穏やかな
    農村地をも巻き込んでいきます。

    二代目、三代目で開拓した販路は広く秋田県内各所に支店を
    設けましたが、戦時統制で支店は解散させられ、本店のみと
    なってしまいました。
    物資は日増しに乏しくなり、配給制となった米も大豆も思うように
    回らず、代用品としてサツマイモが配給されたこともあります。
    そのサツマイモ等の代用品で‘味噌らしきもの’‘醤油らしきもの’
    しか造れなかった時期もあったのです。
    誇り高き蔵人たちには悔しく辛い時代であったことでしょう。
    方々で造りを諦めざるを得なかった醸造所もある中、一度も
    造りを止めることなく続けてきたことは、蔵人の努力の賜であったと
    思います。
    右の写真、前列の腰掛けた背広姿の二人、右が四代目、左が
    五代目孫左エ門でありますが、五代目も徴兵され戦争を経験します。
    しかし幸いにも九死に一生を得て帰国が叶い、その後は戦争で
    途絶えかけた製造技術を再現、また、新たな製品の開発・研究に
    没頭し、平成17年に他界する直前まで、頑なに石孫の伝統を
    守り抜きました。
    その年に改組し現在の有限会社石孫本店となり、当時公職に就いて
    いた六代目に代わり石川裕子が代表取締役社長に就任いたしました。

同じく百周年記念冊子に収められた、当時の記念写真

看板はおそらく創業間もない時代のもの。

写真自体は終戦から10年ほど後に撮影された。
今度は自動車・トラックが一緒に収められている。

前列右端の背広姿が四代目孫左エ門、二人目が
五代目孫左エ門。

 

 


 

    2011年3月、東日本大震災の際に、一番大きく古かった一号蔵は倒壊。
    その前の地震でダメージを受け、近年稀な豪雪で下ろしきれなかった
    雪の重み、さらにあの激震で遂に力尽きるように崩落してしまいました。

    大切な一号蔵を失った事は大変辛い経験となりました。
    一時は喪失感に見舞われたものですが、諦めることなく進むことを選択し、
    蔵人一同、一丸となって苦難を乗り越えて参りました。
    それが一層チームワークを深める事に繋がり、二号蔵が醸造蔵として
    生まれ変わると二十代・三十代の若い杜氏は新たな商品の考案・開発に
    挑戦、熟練の杜氏は豊富な経験から知恵と技術面で彼らをサポートするなど、
    高齢化・後継者不足の業界ながら良いバランスを保っていられることも
    強みのひとつと思っております。

    最近ではメディアや展示会等イベントに取り上げていただくことも増え
    ました。
    2012年にはテマヒマ展(21_21DESIGN SIGHT:企画)に参加し、
    そのご縁で2014年2月28日からの「米展」にも関わらせていただきました。
    それまで誌面が中心であったものが2013年2月にNHK「うまいッ!」にて
    取り上げていただいたのをはじめとし、番組内特集や、バラエティ番組の
    一部など、映像で造りの様子や商品をご覧頂く機会が増えました。
    また、ネットでも知らないところで記事にしていただいているのを、たまたま
    見つけた方が知らせてくださったりと、少しずつでも広がっていることを
    実感しております。

    専業の営業マンを持たない石孫ではございますが、商品自身が、
    その味が一番の営業マンであると自負しております。
    六代目孫左エ門を初めとし、伝統を受け継いだ私共は
    代々重んじられた信義を胸に、社会環境の変化に流されることなく
    日本古来の食文化を守りつつ、お客様のニーズに添えるよう、
    「仁」の商標に恥じない商品をお届けできるよう精進いたします。

     

 

2012年撮影。
一番右が六代目孫左エ門。
ひとつ上の写真と同じ看板が掛かっている。

 

 

石孫の昔の栞(パンフレット)や、レッテルです。簡単ながらご説明も付いております、クリックしてご覧下さい。

 

 こちらは、岩崎の絵はがきです。発行時期等は不明ですが、戦前のものかと思われます。クリックで拡大、簡単な説明がご覧頂けます。

 

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